申立人顔写真 |
①申立人氏名(性別)
※日本名
②年齢(生年月日)
③申立人居住地
④父親氏名(父の出身地) |
当時の状況、手がかりとなる証拠 |
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① アイリーン サカイ ルア
IRENE SAKAI LUA(女)
② 83歳(1924年11月24日)
③ ヌエバビスカヤ州ソラノ町
④ サカイ ギ(ジ)タロウ(愛媛県) |
父は、ルソン島ヌエバビスカヤ州ソラノ町にて製材所を経営、その他大工、灌漑施設の建設など幅広く活躍していた。1920年代あたりに結婚、12人の子(6男6女)をもうける。家には日本式の神棚があり、父は毎日神棚に向かって日本語でお祈りをしていた。戦中、父は日本軍の駐屯地でモチやぜんざいなどを販売していたが、周辺のフィリピン人からも慕われていた父は、日本軍によって不法な取締りを受けた多くのフィリピン人を保護し、助けた。終戦直後、重度のマラリアに罹っていた父は、日本に強制送還されることなくフィリピンに残った。そして1950年、フィリピン人妻と子どもたちに看取られ、ついに日本へ帰国することなくこの世を去った。 |
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① グロリア フジ マンガオ
GLORIA FUJI MANGAO(女)
② 76歳(1932年3月13日)
③ ネグロスオキシデンタル州イロッグ町
④ フジ ヒノ |
父は大工の棟梁として数人のフィリピン人を雇い、戦前からネグロスオキシデンタル州で仕事をしていた。父はビサヤ語(イロンゴ語)が話せたため、一時は日本軍の通訳をしていた。戦争が激しくなると、父はアメリカ軍の収容所に入れられた。草刈りの作業をするフリをして私たちに近づいてきた父から、「私たちは1週間だけここに収容されると聞いている。おそらく、3日後には船で日本に帰らされる。みんな、お母さんを大切にしなさい。子どもたちは、兄弟仲良くするように。」と言い残し、それ以来父の消息は不明となった。 |
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① ギルベルト マルセリーノ タカラ
GILBERTO MARCELINO TAKARA(男)
② 73歳(1934年7月 10日)
③ カピス州ドゥマラオ町
④ タカラ サブロウ(沖縄県) |
父はイロイロ市で商売を営んでいた。両親は1932年に結婚。ギルベルトが1、2歳の頃、父の親戚が働いているダバオのアバカ農園へ働きに行ったきり消息不明となった。戦時中は、親戚と山中の洞窟で避難生活を送った。その時、身を守るために日本人として証拠になる父のアルバムや日本の書類が入った木箱を土に埋めた。戦後も父の消息を尋ねてまわり、1963年頃には、現地の出版社や日本の新聞社に父の情報掲載の依頼をした。現在も父の写真を所持している。 |
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① フェリシダッド タンジ アギラー
FELICIDAD TANJI AGUILAR(女)
② 82歳(1926年3月7日)
③ カマリネススル州リブマナン町
④ タンジ マキデ |
父は、戦前フィリピンに渡り、カマリネススル州リブマナン町で雑貨店を営んでいた。母は父の商売の取引相手の娘であり、1923年に結婚。当時、父はペドロというフィリピン名で呼ばれていた。1931年、父は赤痢に罹り亡くなった。葬儀は父の日本人の友人が執り行い、髪を日本の親族に送った。戦争中はフィリピン人と一緒に山中へ避難したが、フェリシダッドは色白だったため日本人に見られた。当時、日本人はゲリラから襲われるなどしていたことから、町長に言われて母の姓であるアルバニアに変えた。 |
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① アブラハム エスパルテロ ナカ
ABRAHAM ESPARTERO NAKA(男)
※仲 治男
② 75歳(1933年3月16日)
③ アンティケ州バルバサ町
④ ナカ ソウジロウ(和歌山県) |
父は戦前にフィリピンへ渡り、大工として働いていた。開戦直前に母と父が相次いで他界、戦中は残された2人の兄姉と山の中を逃げ回る生活を送り、爆撃により兄を亡くした。終戦後に姉と捕虜収容所に収容され、日本に送還される。身寄りも無いまま、22歳まで横須賀の米軍基地で働き、その後は船乗りとしてフィリピンに帰国した。日本国籍取得を希望するが、父の本籍、親戚の住所は不明のまま現在に至る。 |
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① フスティノ ファルカサントス ウエハラ
JUSTINO FALCASANTOS UEHARA(男)
※ウエハラ ヒストシ
② 66歳(1942年5月14日)
③ サンボアンガ州バシラン町
④ ウエハラ カメキチ(沖縄県小禄村) |
父は沖縄出身。フスティノの日本名はヒストシ。ミンダナオ島のサンボアンガ州バシラン町でココナッツ農園、木材会社のトラックの運転手として働いていた。1940年にフィリピン人の母と結婚、ビセンテという洗礼名を受ける。戦時中は日本軍の通訳をするが、1943年にフィリピン人ゲリラによって射殺された。父の死は、父の友人(日本人)から聞いた。ヒストシは、父の外国人登録証などを所持している。同証によると、父の出身地「日本、沖縄、小禄村」、生年月日「1902年11月1日」、その他に身体的特徴などが記載されている。 |
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① パセンシア ボンギス タナカ
PACENSIA BONGUIS TANAKA(女)
※タナカ サダコ
② 80歳(1927年11月27日)
③ ネグロスオキシデンタル州プロパンダン町
④ タナカ ユキチ(熊本県) |
日本名はサダコ。父は戦前バギオに渡り、のちにパナイ島で大工や家具製作の仕事をしていた。父の作った家具は、今も現地の人々に使われている。父がネグロスオキシデンタル州イザベラ町のサトウキビ農場で働いていた頃に、カナシロという日本人の友人がいた。父は、1939年に肝臓病を患い死亡した。長男イチロウ(故人)によると、父の出身地は熊本県であった。父の生前には近所にタカハシ、オクダイラという名前の日本人が住んでいたことを記憶している。
(サダコは、4年前全盲になった。) |
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①≪日本人1世の配偶者≫
コンチータ ティンボル
CONCHITA TIMBOL(女)
② 82歳(1925年11月16日)
③ タルラック州タルラック町
④ ハヤシ ツトム(林勤) |
夫は日本人で、名前は林勤(ハヤシツトム)。夫とは、戦中にタルラック州タルラック町において結婚した。その後、コンチータは夫の子を身ごもったが、夫は日本兵として戦地に赴くことになった。コンチータは、戦地にいる夫が書いた、妻と身ごもった子を気遣う手紙を受け取る。その後しばらくして、夫の友人という日本人から夫について書かれているという手紙を受け取った。しかし、日本語で書かれていたためコンチータは読むことが出来なかった。戦後になっても夫はコンチータのもとに戻ってくることはなかった。読めない手紙を大切に持っていたコンチータは、1990年代のあるとき、日本語が読める人物に手紙を翻訳してもらい、夫が戦死した事実をはじめて知った。 |
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① アルフレッド サンバァン タナカ
ALFRED SAMBA-AN TANAKA(男)
※タナカ サブロウ
② 71歳(1937年10月12日)
③ ミサミスオリエンタル州ガゴ町
④ タナカ ブンキチ(和歌山県) |
父は、戦前ミンダナオ島ミサミスオキシデンタル州にて大工をしていた。フィリピン人の母と結婚し、8人の子(4男4女)をもうける。アルフレッドの日本名は「サブロウ」。戦中、家族は山中で避難生活をおくっていたが、後に父と離れ離れになり、現在も音信不通である。父を知るフィリピン人によると、父は山中で病気を患い死亡したということだが、定かではない。アルフレッドの兄シンプリシオ(日本名「フクスケ」)は日本語が堪能で、戦後ミンダナオ島カガヤンデオロ市日系人会の初代会長になり、多くの日本人の知り合いがいたが、1993年に死亡している。 |
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① アントニオ カンバヤ キタムラ
ANTONIO CAMBAYA KITAMURA(男)
② 77歳(1931年6月12日)
③ ラナオデルスル州ダンサラン町
④ キタムラ テオカジョ(チョカジョ)(大阪府) |
父は、ミンダナオ島ラナオデルスル州ダンサラン町(現マラウィ市)にて、大工として橋や建物の建設に携わっていた。1927年にフィリピン人の母と結婚、5人の子(4男、1女)をもうけた。父母の婚姻証明書には、父の両親の名前がそれぞれ「OKA(オカ)」、「MODIOKA(モディオカ)」と記載されている。父は、戦前の1938年に原因不明の病に罹り、死亡した。父の亡骸は、母の故郷であるレイテ州カバリアン町(現サンフアン町)の墓地に埋葬された。1950年代に母に連れられ墓地へ行ったときには、十字架に「T.KITAMURA 5月12日死亡」と書かれてあった。 |
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① イレネア サカガワ イッダン
IRENEA SAKAGAWA ETDANG(女)
※サカガワ トミコ
② 73歳(1934年8月20日)
③ ダバオデルスル州ダバオ市バギオ町グラマン
④ サカガワ ミチヒロ |
父は、ミンダナオ島ダバオ市にて港湾建設などに従事していた。フィリピン人の母と結婚し、5人の子(3男、2女)をもうけた。イレネアは、日本名を「トミコ」といい、戦前に通っていたダバオ市内のカリナン日本人小学校では、「サカガワ トミコ」と名乗っていた。しかし戦争が始まり、イレネアは他の日本人とともに避難生活を余儀なくされた。父は、波止場で作業中に爆撃を受け死亡、イレネアの兄弟4名全員は戦中に食べるものがなくなり、餓死した。日本人の子として幼少時に教育を受けたイレネアは、自分の日本名をカタカナで「サカガハ トミコ(サカガハの「ハ」は、旧仮名のまま記憶している)」と書くことが出来る。 |
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①.トマサ ムラカミ アヤッグ
TOMASA MURAKAMI AYAG(女)
※ムラカミ トモコ
② 70歳(1938年6月17日)
③ ダバオデルスル州ダバオ市カリナン町シリブ
④ ムラカミ ヒロシ |
父は、ダバオ市で大工をしていた。母はトモコを出産した直後に他界したため、父が男手一つでトモコと兄を養育した。父とは日本語で会話をしたことを記憶している。当時、近隣には多くの日本人が住んでおり、マツモト、マツオ、カトウ、ナカダ、シゲジといった名前を覚えている。終戦後、それらの日本人は帰国し、妻子が残された。父は終戦後、アメリカ軍に投降し、他の日本人と収容所に送られた。トマサは、「日本人は途中で殺されるかもしれないから、ここに残った方がいい。」と言う父に従った。以来、父と再会することはなかった。 |
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① フィディラ モリグチ リンサグ
FIDELA MORIGUCHI LINSAG(女)
② 66歳(1942年4月24日)
③ ダバオオリエンタル州カラガ町
④ モリグチ |
母の話では、父はダバオオリエンタル州カラガ町で食料品などを売る雑貨屋を営んでいた。1941年に母と結婚、とうもろこし、芋、バナナ等を栽培して生計をたてた。父は徴兵され、戦中に行方不明となっている。フィディラは父の顔を見たことがないが、当時から近所に住んでいた人物が、父の経営していた雑貨屋のことをよく覚えている。また祖父の兄弟の孫が、軍服を着た父の姿を見たと話している。 |
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①コンスタンシア ヨシミ ビニャス
CONSTANCIA YOSHIMI VIŇAS(女)
※吉見 政江
② 74歳(1933年9月1日)
③ マニラ市サンパロック町
④ ヨシミ マサイチ(ヒチ)(吉見正七) |
父は、1920年代にフィリピンに渡航。ルソン島マニラ市サンパロック町にて、1927年に結婚、2人の子(1男1女)をもうける。コンスタンシアの日本名は、「政江(マサエ)」。戦争が始まるまで、サンパロック町にある日本人小学校に通っていた政江は、本人の日本名だけでなく、父親、兄の日本名を漢字で書くことができ(兄の日本名は「正ロ」と書いて「マサオ」と読む)、さらに片言の日本語も話すことができる。父は、戦前にミンダナオ島に職探しに出かけたまま行方不明となり、連絡が途絶えた。戦中、ヌエバイシハ州内の山中に避難生活を送っていた母は、マラリアに罹り死亡。戦中離れ離れになっていた兄とは、戦後再会を果たすが、その後再び音信不通となっている。 |
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① カンデラリオ ゴルティナ タケウチ
CANDELARIO GORTINA TAKEUCHI(男)
② 71歳(1937年2月2日)
③ コタバト州ピキット町
④ タケウチ サダスケ |
父は、ミンダナオ島コタバト州で大工をしていた。1934年にコタバト州内の教会で結婚、カンデラリオをもうける。カンデラリオは、両親が結婚した時の写真を今でも大切に持っている。カンデラリオが生まれた直後に母が急逝、その後父は別のフィリピン人女性と再婚し、2人の子(1男、1女)をもうける。戦中、父は行方不明となり、今も行方は分からない。戦後カンデラリオの義妹となるタマエは、日本のメディアに訴えるなどして懸命に父の身元捜しを行ったが、実を結ぶことなく、数年前にこの世を去った。 |
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① グロリア 外薗 セキニア
GLORIA HOKAZONO CEQUINIA(女)
※外園 キク
② 64歳(1944年7月17日)
③ ダバオデルスル州ダバオ市トリル町
④ 外薗 秀雄(鹿児島県) |
父は戦前、ダバオのカリナン町でアバカ栽培会社に勤務していた。仕事中に左足の膝から下を切断する事故に遭う。トリル町に移り、洋裁店を開いた。人々は彼のことを、片足を意味するビサヤ語「ポンコル」と呼んだ。戦争中、父は片足だったため軍には所属しなかった。戦争が終わると、父は収容所に入れられたが、母は毎日本人を抱いて父を訪問した。やがて父は日本へ強制送還された。2008年4月、PNLSCの調査により父の親族が発見された。今回は、鹿児島在住の親族訪問のため来日。 |