戦後80年目の夏、外務省によるフィリピン残留日系人訪日事業が初めて実現しました。これに先立つこと3月に、石破総理が参議院予算委員会で立憲民主党の塩村あやか議員の質問に対し、「総理大臣が残留日系人の方々に会うということで日本の思いが伝わるのであれば、それはぜひ実現したい」旨答弁し、翌4月にはマニラで残留2世3名と面談し「一日も早く国籍取得や一時帰国が実現するよう取り組みたい」と発言。これらの流れを受けて、今般の訪日事業が実施されることとなりました。
今回来日したのはルソン島中部ラグナ州サンパブロ在住の竹井ホセさん(82歳)でした。
戦中、母のお腹にいるときに父と生き別れたホセさんに、日本人父の記憶はありません。母から、自分の父親は日本軍に所属していた「タケイギンジロウ」だと聞かされていましたが、母が保管していた父の写真もいつしか失われ、ホセさんはながらく身元未判明の状態に置かれていました。2009年、厚生労働省に保管されていた資料(フィリピンに駐留していた「日本軍鉄道第八連隊」名簿)の中に「竹井銀次郎」の記録があったことから身元が判明しました。銀次郎氏は戦後日本に強制送還され、大阪で日本人女性と結婚して子どもをもうけていたこともわかりました。
ホセさんの国籍回復のための就籍を申し立てるにあたり、異母兄弟にあたる大阪在住の竹井宏之さんにDNA鑑定への協力をお願いしたところ快諾、結果は「98.7%の確率で血縁関係にある」というものでした。戦後長い時間を経て、ホセさんはようやく日本人父の身元を特定することができました。
今回の訪日は、ホセさんをはじめ、ながらく国籍が曖昧な状態におかれていた人たちの救済を前に進めることにつながります。外務省も、ホセさんの訪日を皮切りに、引き続き可能な支援を行っていくとしています。その意味でも、第一陣としてのホセさんの訪日事業に、世論とメディアの強い関心と注目が集まったことは大変有意義だったと考えます。
ホセさん訪日の前日の8月5日、在マニラ日本大使館で在比メディア向け記者会見が行われました。ホセさんは「大阪の親族がきょうだいと認めてくれたらうれしい。父の故郷の土を踏むことで、アイデンティティが完成される気がする。いつか桜も見てみたい」と語りました。その後は遠藤和也大使と懇談し、激励の言葉をいただきました。
いよいよ出発の8月6日早朝、日本大使館の松田公使が空港までお見送りくださり、前日からの温かい日本政府の対応に、初めての海外渡航への不安も吹き飛び、付添の息子アヴェリノとともにフィリピンを後にしたホセさんでした(写真は©外務省。在フィリピン日本大使館HPより)

早朝、在比日本大使館の松田行使によるお見送り。感激のホセさん。©外務省
関西空港に降り立ったホセさんらが空港から一路向かったのは、異母兄弟が待つ河内長野市内の旅館です。
ロビーにはホセさんの異母弟にあたる宏之さんがホセさんの到着を待っていました。一人っ子だったホセさんにとって、生まれて初めて出会う兄弟です。無口な2人は交わす言葉こそ多くありませんでしたが、「私を兄弟として受け入れてくれて嬉しい」というホセさんの言葉に宏之さんはうなずきました。
対面前は、お互いに「異母きょうだいの自分の存在を快く思っていないのでは」という不安を抱えていましたが、二人の間に流れる空気は終始和やかで、心配は杞憂に終わりました。通訳を介し、お互いの家族のことやこれまでの人生などについてぽつりぽつりと語り合っていました。
翌7日の出発時はあいにくの雨。車での移動中に「今日お墓に行ったら、父に何を伝えたいか」という問いに、「何を言おうか考えている」との答え。まずは大阪市内にある父が働いていたクボタ鉄鋼(現株式会社クボタ)のビルを見学。緑多い河内長野市内から繁華街への移動で、表情が固かったホセさんでしたが、「ここはマニラでいうとキアポのような所だよ」説明されると笑顔になりました。宏之さんの話では、銀次郎さんは難波に勤めていたが、とにかく日本国内の出張が多く、あまり大阪にはいなかったように思うとのこと。その後は会社からほど近い大阪・新世界へ。銀次郎さんは飲み歩くタイプではなかったそうですが、この辺りを歩いて通天閣を眺めることもあっただろうね、と話しました。お昼は大阪のソウルフード、たこ焼きと串カツを楽しみました。その席で、スマホから現在アメリカに住むホセさんの娘マリッサさんとオンラインでつないで会話。マリッサさんは90年代にJICAの研修生として日本で過ごした経験があり、日本語を交えながら宏之さんと会話。「父に会ってくれてありがとう」と感謝の言葉を伝えていました。
お墓に向かう途中に大阪城に寄り、大阪城公園を散策。リラックスしてから、再度車に乗り込み、お墓へ向かいました。速道路を降り、お墓が近づくと、ホセさんは少し緊張した雰囲気に。お寺の裏の駐車場に車を止め、宏之さんに導かれお墓に向かいました。
ホセさんはフィリピンから持ってきたお墓参り用のロウソクを取り出し、「フィリピンではお墓参りの時、亡くなった人一人につき一本ずつロウソクを供えます。ロウソクの煙が天国へのぼり、死者とつながることができます」と説明。ロウソクに火をつけた後、日本風に花を手向け、線香を供えました。
お墓でお父さんになんと話しかけたの?という問いに、「父と母のことを思って話しかけた。自分の年齢を考えると、再びここに来ることはできないかもしれないけれど、父が永遠に安らかに過ごせるようにずっと祈っていることを伝えた、そして、母がずっと父に会いたがっていたこと、『母のことを覚えていますか』と尋ねた」と答えました。お墓参りを終えたホセさんは、「(今回の一時帰国で)お父さんと弟に会うことができた。私の父母は結婚していなかったから、お墓参りはできないと思っていた。弟がいてくれたから、お墓に来ることができた。とても感謝しています」と語りました。宏之さんは父に「あなたの息子が来ていますよ、と語りかけました」と話しました。
お墓参り後に「自分が日本人だという気持ちが強くなった、あらためて、日本国籍取得の気持ちも強くなった」と語ったホセさん。宏之さんは、マスコミからホセさんやホセさんと同様に日本国籍が取得できないままとり残されている人について問われると、「個人レベルではどうしようもない話。(ホセさん同様に)リーガルサポートセンターに手伝ってもらい、日本国籍を取得してもらいたい」と話しました。
その後、駅までゆっくり歩き、改札口で宏之さんとお別れ。二人は軽くハグをし、電車へ向かう宏之さんを見送りました。
8月8日、9時前に京都駅を出る新幹線に乗車。これから父の故郷を離れ東京に向かうことを伝えると、「さみしいね」と話すホセさん。しばらくは車窓から景色を眺めていました。
東京駅に着くと、広い構内にびっくり。丸の内口を出て、外務省の須田課長補佐が迎えてくださいました。ランチを取りながら、大阪での親族対面や墓参りの様子について報告しました。
その後、笹川平和財団へ向かい、萱島信子常任理事と小西伸幸アジア・イスラム事業ユニット第1グループ長と面会し、フィリピン残留日系人問題解決への同財団並びに日本財団の長年の支援に謝意を表明したうえで、本問題が現在も解決していないことや、戦後80年を経て親族対面が実現したことを報告しました
次に塩村あやか参議院議員の事務所を訪れ、塩村議員の国会での質問を端緒とし今回の訪日が実現をしたこと、ホセさんはもう無理だと思っていた弟との対面の実現について報告し、感謝を伝えました。塩村議員も、ホセさんの苦労をねぎらいつつ、言葉に耳を傾けていました。
その後は外務省を訪れ、井土南東アジア第二課長らと面会しました。マスメディアを入れての記者会見で、日本に到着したときの感想や親族と対面を果たした今の気持ちなどを尋ねられたホセさんは「父の国の人たちはみな礼儀正しく街中は美しく感動した」「異母弟が兄弟として自分を受け入れてくれたことが嬉しい」などと語り、今後は「自分の日本国籍を回復させ、いまも無国籍状態で残されたほかの2世たちもすべて救われることを願う」と話しました。

外務省でメディアのインタビューに答えるホセさん
その後在日フィリピン大使館を表敬訪問し、マリージョイ B. ラミレス書記官兼総領事とマ.アリッサ ホ A. バコンコ書記官に対面しました。日本人に囲まれ緊張の数日を過ごしていたホセさんも、ホッとした表情を見せていました。
最後にさくら共同ビルを訪問し、河合弁護士、青木弁護士、大岩弁護士と対面。これまでの行程を報告しました。その後の食事会には北村弁護士も参加、長い一日が終わりました。
8月9日(土)、しっかり休養を取った後に、総武線に乗り、浅草の町並みや銀次郎さんが戦前に通った大学のあたりを、銀次郎さんもきっとこの辺りを散策したんだろうね、と話しながら散策しました。夕方からは、無国籍ネットワーク主催のフォーラム「忘れられていた日本人 ~フィリピン残留日系人にとっての戦後80年~」(於:早稲田大学)に参加しました。これについては別途ご報告します。
最終日の10日は朝から強い雨の中、リムジンバスで羽田空港へ向かいました。空港で最後の昼食に吉野家の牛丼を食べながら、フィリピンの家族とオンライン通話をするホセさん。無事日程を終えた安堵の表情をみせていました。PNLSCスタッフ総出で見送る中、満面の笑顔で搭乗口へと消えていきました。