現地調査報告

Part 2 2004年8月14日〜8月19日

出会いの旅を終えて〜現地の熱い期待に成果と責任を実感

PNLSC代表 弁護士 河合 弘之

 8月の最後の週、私はフィリピン中北部を直撃した2つの大きな台風と時を同じくしてフィリピンに滞在した。目的は、マニラ、バギオの日系人会訪問、身元未判明の残留2世の聞き取り調査、顧問を務める「フィリピン日系人会連合会」の会合出席である。
 マニラ入りした翌25日、大雨の中、ケソン市にあるマニラ中部ルソン日比協会(以下マニラ日比)を訪問した。山岡一美会長(2世)が会員と私たちとの意見交換の場をセッティングしてくれていた。台風の影響で参加者は20数名だったが、次々と自分の問題を訴える日系人たちの熱気に圧倒された。
 2世3世に混じって1世の妻の姿もあった。90近い婦人が、人さし指ほどの大きさの木と布でできた人形をみせてくれた。日本人の夫からもらったものだという。身元捜しの手がかりにはならないが、彼女 にとってはそれが、かつての恋人の、また子の父の存在を伝える何より確かな証拠なのだろう。夫の名はタケイギンジロウ。タケイは彼女に「あなたをポケットに入れて日本に連れて帰れるならそうしたい」と言ったという。戦争中、ふたりが離れ離れになったとき、息子のホセ氏は母のお腹の中だった。1943年生まれの彼はどうみても日本人の顔つきである。

日本人移民発祥の地バギオへ

 その日のうちに6時間かけてバギオに移動した。翌日もバケツをひっくり返したような激しい雨。アボンの愛称で知られる北部ルソン日比友好協会(バギオの日系人会)で、身元未判明の10家族を個別面談した。
 手がかりとなる情報が乏しく、身元捜しが難航するケースが多い中、「成果」を実感できたのが上村ナツミさんのケースだ。5人の子どものうちナツミさんを含む4人の出生が日本名で戸籍に届け出られていたのだ。聞き取り調査の後、間違いないと判断、結果を告げた。

 まったく予期しなかったらしく、しばらく言葉を失い、やがて驚きと感激で泣き崩れてしまった。「母は読み書きができず、私は自分の誕生日すら正確に知らなかった。私たちの出生を日本に届けてくれていたなんて、なんていい父。学のない母を本当に愛していたに違いない」。涙ながらに語る姿を前にして、改めて、自らの出自を知る権利の大切さ、この仕事の重要さを再認識した。この状況を見ていた別の日系人が言った。「PNLSCの人たちは奇跡を起こす手を持っている」と。これは私たちPNLSCに対する信頼と期待を表している。私たちはそれに応えなければならない。

積極的な発言が相次いだ連合会会合 

 翌日、水害のためあちこちの道路が通行止めとなる中、10時間かけてマニラに戻った。マニラでの最後の日程は連合会会合である。フィリピン各地から参集した連合会構成団体たる日系人会の会長ら20人を前に、PNLSCのこれまでの調査の成果を報告した。現段階で約200名強のカテゴリーC(身元未判明家族)の身元が判明する可能性が高いが、この調査を完結させるには連合会およびその支部の協力が不可欠である。必要な費用負担も含めて、そのことをどこまで理解してもらえるか不安だったが、その心配は杞憂に終わった。
 「このチャンスを無駄にしないためにも皆で協力して取り組もう」「財力のない支部にもそれなりの協力の仕方があるはず。私たちはこんなことならできる」「これは我々にとっていい練習になるはずだ」。そんな発言が相次いだ。
 フィリピン各地の日系人会は、成立時期も規模も異なり、地域色が強いというか、考え方も様々―そう聞いていただけに、ここまで積極的な発言が飛び出すとは、正直驚きであった。

 日本政府の補助金が出るまで、資金力のある支部と互助財団が資金を拠出し、10月からプロジェクトをスタートさせることが決まった。資金的に外部に頼りがちだった連合会および各支部としては画期的なことである。PNLSCも、東京での作業と現地でのPNLSCスタッフの活動に関し、責任をもつことを約束した。
 運動は、それを担う組織が財政的に自立していなければ継続しないし、成功しない。戦争によって家族と引き離され、戦後大変苦労してきたフィリピン残留孤児を支援することは日本人の責務と考えるが、フィリピンの日系人社会が組織力を高め、団結し、かつ自立的に地位向上のための運動を進めていくこともまた、必要と思うのである。 
 今回、このような感動的な瞬間に立ち会うことができたことをうれしく思うと同時に、フィリピン残留日本人の身元捜し、国籍確認に尽力していくことが、いかに重要でやりがいがあるかを実感した。(Kawai, Hiroyuki)