戦後78年目の肉親捜し、4年ぶりに残留2世が訪日 (12/14-19)

2023年12月14日、沖縄出身の父を持つ2世2名が、肉親捜しのため、最後の希望を胸に沖縄を訪問します。
現在、彼らの渡航費用を集めるべく、塩村あやか参議院議員と弊団体代表理事の猪俣典弘が呼びかけ人となって「for GOOD」のクラウドファンディングに挑戦中です(11月末締め切り)

私たちが「最後の陳情」として集団一時帰国を最後に実施したのはコロナ前の2019年でした。あれから4年が経ち、国籍回復を願いながら実現することなく他界された2世も少なくありません。

PNLSC発足以来、「就籍」という手法により308人の2世が国籍を回復しました(父の戸籍未判明で許可87人、父の戸籍判明済212人、父の戸籍沖縄戦で滅失9人)。
しかし、家庭裁判所の就籍許可を勝ち取れるのは、父の戸籍が見つかっている、あるいはフィリピンに2世の出生や両親の婚姻についての記録や証書が存在する場合です。出生証明書がない、あるいは両親の婚姻についての情報が乏しい場合は却下されています。証拠の少ない2世にとって、申立て自体のハードルは依然として高いのです。
今、彼らに残された時間は刻一刻と残り少なくなっています。人はだれもが国籍を得る権利、そして出自を知る権利を有しています。「肉親に会いたい、父の顔を知りたい」という2世の願いに今一度耳を傾け、そして抜本的解決の筋道をつけるという課題を世論に訴えるため、この度、2名の一時帰国の実施を決断しました。2名とも、父親の身元は未判明、かつ両親の婚姻の証拠がないなど、就籍許可申立てが難航しているケースです。来日前にできる限り、親族に関する情報を入手しておきたいと考えます。

2名の肉親に連なる情報をお待ちしています!
※来沖の日程は12月14日―19日(滞在は沖縄のみ)、来日予定の2世の情報は以下の通りです。

◉カナシロ・ロサ(日本名マサコ)(80歳)ダバオ市在住

1943年9月ダバオ生まれ。地元の教会に、43年10月10日の洗礼記録が残っている。父親の欄には「コシエ カナシロ  ジャパン」の記載がある。父コシエはさんは戦前に沖縄からダバオに渡り、市内のオオサカバザールで理髪師として働いていたという。地元の食堂で働いていたロサさんの母親と出会い、2人の間にロサさんが生まれた。ロサさんは父から「マサコ」という日本名をつけられていたという。母によると、戦火が激しくなってきたころ、コシエは日本軍に徴兵、「すぐに戻る」と言ったきり、2度と戻ってくることはなかった。果たして父が戦死したのか、あるいは生きて捕虜となり日本へ強制送還されたのか、何もわからないまま、ロサさんは母親とともにフィリピンに残留した。幼い頃に生き別れたため、ロサさん自身に父の記憶はない。

戦後、母はフィリピン人男性と再婚、ロサさんは幼少時、自分の父は母の再婚相手だと思っていた。しかし、ある日、異父弟妹たちは誕生日を祝われている一方で、自分だけは誕生日を一度も祝ってもらったことがないことに気づく。そして、近所の人たちが自分の父親が日本人であると話しているのを知り、母方の親戚から自分の実の父親が日本人の理髪師であったことを知らされた。ようやく、母はロサさんの父が日本人であることを認め、父についての思い出をロサさんに話すようになったという。

父のことを記憶していた母も1998年に他界、長年連れ添った夫も2001年に天国に見送ったロサさんは、今、人生の最終章にあって、日本人の父とのつながりを確認したいと願っている。

◉アカイジ/アカヒジ・サムエル(81歳)パラワン州コロン町在住

1942年8月15日パラワン州コロン町生まれ。父が「アカイジ/アカヒジ カメタロウ」という名だと母から聞かされたのは、サムエルさんが4歳の時。父のカメタロウさんはパラワン島で漁師として働いていたが、太平洋戦争が勃発、日本軍による捕虜虐殺事件が起きたパラワン島における島民の怒りは強く、カメタロウさんは抗日ゲリラによって殺害された。兄弟はサムエルさんのほか2人。姉のチヨコは戦時中に幼くして亡くなった。兄のノボルは厳しい戦後をサムエルさんとともに生き延びたが、日本国籍の回復を実現させることなく2014年に無念のまま他界している。サムエルさんは1980年生まれの末娘に亡き姉の名前「チヨコ」と名づけている。

アカヒジ(ヂ)という名は沖縄県与那城村(現在のうるま市)の特定の地域に非常に多い苗字「赤比地」であると考えられる。戦前に渡航した赤比地姓の男性は何人か見つかっているものの「カメタロウ」という名前の人物はいまだ見つからない。沖縄戦で戸籍が滅失したこと、戦後、沖縄では改姓が進んだことも、身元捜しが難航している一因である。

サムエルさんは幼い頃より、母や親戚から「お父さんは日本人だよ」と言われていたが、パラワン島における反日感情は根強く、近所の人々からいじめられることもしばしばで、厳しい戦後を生き延びることで精いっぱいだった。81歳となった今、自分自身の苦難の道のりの証として、日本国籍の回復と親族との対面を切望している。

 

<問い合わせ先>
認定NPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター
代表理事 猪俣典弘/事務局長 石井恭子
東京都新宿区四谷1丁目7番地装美ビル602 TEL:03-6709-8151 MAIL:info@pnlsc.com

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