Part 8 2012年10月9日~11月29日
フィリピン日系人2世たちの多彩な人生史 
事務局 金丸友香

左が筆者。マニラ事務所のスタッフとともに

PNLSCに入所してから約1年9ヶ月が経ち、計5回のフィリピン出張を終えた。その間には、ルソン・ビサヤ・ミンダナオの各地域で、多くの聞き取り調査をした。対象は残留2世、3世から彼らの配偶者、また2世たちの証人になってくれる現地の人々など様々だった。
 特に残留2世のなかでも、父親の身元が判明している人、未判明の人、戦前の教育により日本語の出来る人から戦中生まれの人まで、同じ日系人・戦争を経験した世代といえどもその境遇は千差万別で、話を聞くのも大変興味深かった。

 「戦前は父の商売が順調でとても幸せな暮らしでしたよ。私も商売を手伝って。でも戦争が始まると、父、兄弟達は日本軍と同行したり、ゲリラに連れ去られたりと行方がわからなくなり、家族はバラバラになってしまいました。」

 「私は1945年に生まれているので、終戦時にいなくなってしまった父のことは覚えていません。子どもの頃は、やはり周りから日本人とからかわれました。それでも日本の名前は変えたくありませんでした。父がつけてくれた名前だし、もし父が私を探しに来たときに見つけられるように。」

 「終戦になると父は日本へ強制送還されました。父の身を案じた母に頼まれて、私は言葉のわからない日本へ父を追って行くことになりました。その後3年ほどかけて父を見つけ、父をフィリピンへ再移住させることが出来たのです。私自身は日本にとどまり、引退するまで日本で暮らしました。」

 「日本人だった祖父とフィリピン人の祖母は戦争中に行方知れずになり、父の兄たちは終戦時に日本へ行ってしまい、父だけがフィリピンに残ったんです。父が戦後私の母と結婚したのは、フィリピン人と結婚することで自分の身を守るという理由もあったのでしょう。」

「戦争中は日本人の先生から日本語を教えてもらう合間に、日本兵の服の洗濯や部隊の慰問などをするようになりました。それから日本軍の電話オペレーターもやりましたよ。戦況が厳しくなってくると、日本軍の兵隊と一緒に山の中へ逃げて。」

 また戦後の人生についても、大学まで進んだ、経済的に苦しく小さいうちから働かなければならなかった、親に決められて結婚した等、日系2世の歩んできた道は多様だ。彼らは著名な人物というわけでもなく、小説や映画になるほどの数奇な人生を送ってきたわけではないかもしれない。しかし、彼らの「自分史」は一つとして同じものがなく、それぞれにドラマがある。こういった個々の家族の歴史や個人の人生史は、伝えられる世代・本人がいなくなってしまったら、完全に忘れ去られていってしまうものだ。

PNLSCとして、目指すところはその先―残留日本人の身元判明や国籍回復―ではあるのだが、普段スポットを当てられることのない人々の人生を、記録に残させてもらえることは幸いに思う。そして、「フィリピンに生きた日本人」のことを、後世にも伝えていけたらと思う。(Kanamaru,Yuka)

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