Part 3 2004年11月19日〜12月9日
日系人人生史を通じて 体験の共有と歴史の再認識
事務局 松本みづほ
11月19日から12月9日までの3週間、日系人2世(時に3世も)の面接調査のためにダバオとその周辺地、及びマニラに滞在した。これは私にとってPNLSC事務局スタッフとしての初めての出張であったため、不安と興奮が入り混じった気持ちで現地入りした。
今回の調査拠点となったダバオの日系人会(PNJK)事務所には、連日、面接を受ける日系人2世や3世、その家族などが訪れた。我々は2世(死亡の場合は3世)ひとりひとりに聞き取り調査を行い、2世の出生から現在までの生い立ち、父親や家族について聞き取った。公立学校であまり教育を受けていない2世も多く、国語であるフィリピン語(タガログ語)が話せないため、ビサヤ語の通訳を随時入れての聞き取りとなった。
私にとって、日系人の方々へのインタビューは楽しく、興味深いものだった。みな非常に素朴なおじいさん、おばあさんだ。彼らは、一生懸命こちらの質問に答えたり、忘れていることを思い出そうとしてくださった。彼らの記憶があいまい、断片的だったり、時間の経過順になっていなかったりするため、それらを整理したり、年月を証言から割り出したり、事実を確認したりすることが困難だった。忍耐を持って聞き、最後に状況の全体像が見えたときにはパズルを解いたような面白さを感じた。
多くの方から話を聞いていく中で、我々にとっては歴史である事柄が、迫力をもって現実のものとして捉えられるようになった。日本人移民のフィリピン入植、部族社会であった当時の状態、日本人コミュニティーの発展、戦争勃発と戦中の混乱、戦後の強制帰国と家族の離別。残された家族の戦後の困難などがありありと目に浮かぶようになった。
田舎への訪問インタビューの旅
調査対象者の中には、遠隔地に住んでおり、経済的な問題や健康状態の問題でPNJKの事務所にこられない方もおられた。そのため、何度かダバオから出張をして調査を実施した。私自身はPNJKの理事長やスタッフ、運転手の4人と共にマティ市とバガンガ市へ出張した。ダバオからマティまでは3時間、到着後は日系人の家を探して4件まわった。
田舎は人々が知り合い同士で、どの家も比較的スムーズに見つけることができる。持参のコンピューターやプリンターを使い、聞き取りと文書作成を行った。その夜は、日系2世の名前ゆかりの「マサオビーチ」の宿泊施設で一泊し、早朝、マティからバガンガに出発した。舗装道路と砂利道が交互に続く道のりを4時間。こんなところにまで戦前、日本人が移り住んでいたということは私にとって驚きだった。バガンガにて一件の調査を行い、ダバオまで7時間かけて帰った。山中の道は舗装がされておらず、途中小川を横切るとき、タイヤが埋まって出られなくなるなどのハプニングもあった。
戦争が日系人社会を引き裂いた
今回の調査を終えて心に残ったことは、戦争の悲惨さである。戦争がそれまでの日系人社会を一転させ、日比の関係を引き裂いたという印象を強く持った。現地に適応しつつ生活していた日本人や妻、その子どもたちは、フィリピン人を敵に回して戦う、あるいはフィリピン人の攻撃を恐れる生活を強いられた。日本軍の残虐行為はフィリピンでは有名だが、今回の聞き取りの中で、フィリピン軍(ゲリラ?)により、皮膚や肉をそぎ落とされる拷問を受けたり、生き埋めにされたりして殺された一世などのショッキングな証言も出てきて、戦争における人間の残虐性も垣間見た。
貧困が今も日系人を苦しめている
戦後は強制送還により家族は引き裂かれ、残された子どもたちは自己のルーツを否定または隠しての生活を長い間強いられた。また、戦争により両親を知らない孤児となった日系人も多いと思われる。実際、今回もそういう方が数名おられた。これらの不利な環境の中で直接的、間接的にもたらされた貧困は、現在も日系人たちの生活を苦しめている。
もう一つ心に残ったことは、教育の力である。日系人の中には、戦前の教育を受けた方々が多くいる。フィリピンで通常使われている英語のアルファベットを書くことができないのに、自分の名前を漢字で書けたり、軍歌を最後まで正確に歌えたりする方々も多くいて驚いた。今でも天皇を崇めている方々もいる。子どものころの教育は、その人の一生をある程度決めるといっても言い過ぎではないと感じた。日本の教育により、多くの日本人、日系人も戦争に動員されていった。
日本は、戦争責任という観点からも、アイデンティティ回復を望む日系人たちの声を聞き、日系人を認め受け入れていく必要があると考える。その手伝いをPNLSCが少しでもできたらと願いつつ、地道に活動していく所存である。(Mizuho Matsumoto)