Part 6 2006年4月17日〜5月19日
2006年4月〜5月 コタバトで出会った1世配偶者
猪俣典弘
4月17日〜5月19日マニラ、ダバオ、コタバトにて活動し、二世への面接は計28件実施しました。
コタバト日系人会
コタバト市はミンダナオ島マギンダナオ州にある。コタバト市の周辺はムスリム・ミンダナオ自治区(ARMM)であり、人々の暮らしはイスラム文化圏の影響を強く受けている。調査に協力をいただいた「コタバト日系人会」は、現在168名の日系人会員を擁する。その前身である「コタバト2世会」が、1,975年に相互扶助と会員の身元捜しを目的に組織されて以来、日本からの慰霊団の受け入れや日本語教室の開講等の活動を行ってきた。一時は80人の2世会員がいたが、高齢の彼らは徐々に亡くなり、現在は38名の残留日本人2世が身元の判明を静かに待ち望んでいる。
日本人1世の配偶者
今回のコタバトでの調査では日本人の配偶者3人に聞き取り調査をおこなう事ができた。そのうちの1人であるたかみねさんを紹介させていただきたい。
たかみねさんはご高齢のため、自宅を訪問させていただいた。私が到着すると、日本人と同じように深いお辞儀のあと、日本語で「まあ、おかけなさい」と話し、驚かされた。たかみねさんの夫は沖縄出身、コタバトに戦争がはじまる2年前に渡り、大工の棟梁だった。
「私は夫をカッツンと呼んでいました。カッツンはとても料理が上手で、私の好きなすき焼きや麺類をよく作ってくれたものでした。日本人の習慣にならい、私たち2人は食事を床に座ってとったものです。私も夫の言語である日本語を話せるようになりたいと思いましたので、少しの会話はできるようになりました。思えば、当時はとても幸せでした。」
やがて戦争が始まり、たかみねさんは一人娘のヒロコと親戚を頼り疎開する。戦争終結時にたかみねさんの夫は他に日本人とともに収容所に連行されることになる。最後にたかみねさんが夫に会ったのは連行される直前だった。一緒に連れて行ってくれるように懇願したが、収容所に幼い子どもを連れて行くわけにはいかないと言う夫の意見に従った。
「娘ヒロコは2年前に、ここコタバトで亡くなりました。ヒロコが最後まで願っていたのは、夫を探しだすことでした」「もし夫が生きていれば、結婚して幸せになっていればいいなと思います。そして、できることならば、再会したいと思っています。」
今回のコタバトでの調査に応じてくださった方々の大半は、70歳から80歳を超えていた。視力がほとんど無い人、足腰が弱くなった人、耳が聞こえにくくなった人、戦後から経過した長い時間は、人々の体力を衰えさせ、容姿も変えた。だが、肉親の記憶は、戦争の苦しい経験とともに今なお消えていないことを知った。日本人の夫と生き別れ、必死に子どもを育てあげた母親、フィリピンに残されて三十年間も苦労を重ね
た残留日本人2世、インタビューに声を詰まらせ、涙を浮かべながらも克明に話してくれた。戦争の理不尽さをあらためて思い知らされた。
自 問
太平洋戦争が終わって20年以上を経た昭和40年代に生まれた私は、インタビューを終えて「戦後の意味」を自問している。日本、フィリピン、米国の兵士だけではなく、多くの一般の人々の命や生活が奪われた戦争から何を学んだのだろか。命の大切さ、家族のありがたさ。戦争を体験した日系人2世、1世の配偶者たち、残された家族の口から出た言葉を並べるのは容易だが、さらに自問を重ねたい。