現地調査報告

Part 4 2005年1月19日〜3月9日

ダバオ・ビサヤ地域 身元調査の旅

事務局 松本みづほ

 今回は、1月19日のマニラ入りから3月9日の帰国まで、延べ49日間の調査となった。調査にあたり、フィリピン日系人連合会支部である各地日系人会の全面的なバックアップをいただいた。ここでは、それぞれの日系人会の紹介をしつつ、調査で感じたこと、学んだことを記したい。

ダバオ調査

PNJKジョセブン会長

 最初の地ダバオでの調査は、ダバオ市のフィリピン日系人会(PNJK)を根拠地にし、途中カガヤン・デ・オロや東ダバオ州のマティへの出張も行った。ミンダナオの日系人は、他の地域と比べ貧しく教育レベルも低い人が多いという印象を持った。山奥に住んでいる者が多く、日系人会がそれらの日系人に連絡をとるのも至難の業のようだ。
 PNJKはフィリピンの日系人会の中でも規模が大きく、小学校や高校の経営なども行っている。多くのダバオ出身の日本人引揚者たちが、個人的にまたは団体として日系人会の支援を行っている。PNJKでは、戦前教育を受け日本語が堪能で、日本人としての強いアイデンティティを持った日系2世が多く活動されている。現在のPNJK会長のジョセブン会長は、日本語が堪能な日系3世だが、一世の身元が未だ判明していない。

セブ・レイテ島出張

 ダバオでの2週間の滞在の後、セブへと飛んだ。セブはビサヤ地域で一番大きな都市である。ビサヤ地域の調査は連合会のディンさんが同行してくれた。セブ日系人会は、PNJKとは違い有給スタッフはおらず、みな無給の役員によって運営されている。しかし、セブ日系人会は知的障害児のための施設を運営しており、その施設の一室を借りて面接等を行った。
 セブ日系人会のマリオ・カマスラ会長は、日系3世で、妻と共に何度も来日し就労した経験がある。現在、セブにてテレビ局付のエンジニアとして働いている。
 セブからはレイテ島への出張も行った。船で2時間、バスで3時間の旅だ。レイテのタクロバン市にて、一世の戸籍が見つかった一家のインタビューを行い、セブに戻った。仕事の合間、セブの港が見渡せる山中にあるブナンの戦碑を見た。多くの日本兵がそこで戦死したのだ。

サトウキビの島・ネグロス(バコロド市)

ネグロス日系人会
ビダル初子副会長

 セブでの10日間の滞在後、我々はネグロス島のバコロド市へ飛んだ。バコロドにも日系人会があるが、セブと同様、有給スタッフや事務所は存在しない。我々を迎えたのはネグロス日系人会・副会長で日本語が流暢なビダル初子さん(日系2世)と役員のアイリーンさん(日系4世)。
 ビダルさんは、終戦時に強制送還された父親と日比で離れ離れに暮らすが、手紙のやり取りがあったそうだ。彼女の母親が亡くなったとき、父親は、帰国後、日本人と再婚し子どももいることをビダルさんに伝えた。父親からは、その後もフィリピンにいるビダルさんに送金したり、日本に招待することは一度もなかった。「それでも私は父を愛しています。」とビダルさんは言う。80年代になり、彼女は自力で来日し、父親と再会した。父親に日本に住むことを薦められた彼女は、「まだまだ困っている日系人が多くいて、私の助けを必要としているから」と言いフィリピンに戻ったそうだ。現在ビダルさんは年金暮らしで細々と生活をしているが、子ども達は日系人として日本に働きにでている。今回の調査のために、ビダルさんは日系人の自宅を一軒一軒回って面接の準備を整えてくださった。
 ところで、20代の若い役員、アイリーンさんの曽祖父である一世の身元は未判明だ。今回の調査では彼女の父親にもインタビューを行った。
 休日、バコロドにある戦没者慰霊碑を見た。ネグロス島で戦争中に命を落とした日本軍兵士、日本人非戦闘員とその家族、またフィリピン人やアメリカ人のために建てられたものだ。慰霊碑の周りは一面のサトウキビ畑と遠くに山が見えた。フィリピン各地のいたるところに日本軍の痕跡があることに、今回改めて驚きを感じた。日本は想像を超える多くの国力と国民を戦争に注いだことに気づき、驚愕した。

パナイ島(イロイロ市)

パナイ日比協会
フローレス会長

 バコロドでの6日間の日程を終え、我々はパナイ島のイロイロ市へ船で移動した。たった1時間半の旅だ。ここではパナイ日比協会のフローレス会長が迎えてくれた。
 フローレス会長は日系2世で、父親は終戦時に強制送還されている。送還後、家族はイロイロ市長に嘆願、1950年には父親をフィリピンに呼寄せた、珍しいケースだ。戦前、一世はフィリピンに多く貢献していた人物だったため、市長自らが招聘に動いたようだ。その後、一世はフィリピンで暮らし、フィリピンで亡くなった。フローレスさん自身は、長年フィリピンの学校の先生として務め、校長になり、その後は教育長にもなった。教育長時代、日本各地の学校を訪問し交流したそうだ。現在は退職され、日系人のための活動を行っている。子ども達家族は日本で生活している。

 イロイロ市の6日間の滞在を終えた後、我々はマニラに戻った。マニラのフィリピン日系人連合会本部でも何件か聞き取り調査を行い、今回の調査旅行は終了した。

調査を終えて

カテゴリーCプロジェクト
連合会コーディネーター
ダコネスさん

 ビサヤ地域の調査を終えて印象に残ったことは、アバカ園労働者が多かったダバオ地域とは違い、ビサヤ地域は、漁民または日本軍兵士として戦争直前、または戦中に当地に来た日本人が多かったことだ。そのため、彼らの多くは、後に日本軍の先遣隊またはスパイだと思われたようで、日系人自身もそう信じている人が多い。また、ダバオ出身の日系人2世が、戦後ビサヤ地域に移住したケースも少なくなかった。
 また、ビサヤ地域の日本人会の特徴は、組織としては小さく、中心的メンバーが高齢であるか、日本で就労中のため、活動規模が小さくなっている。しかし、献身的な数人の年配ボランティア役員によって活動が支えられている。


屋外での調査の様子(セブ)

 調査旅行の全工程で聞き取り調査を行った数は、計92件だった。その中で、身元が判明している日系人の数は49件。今後は、身元が未判明の日系人のために身元捜しに全力を尽すと共に、7月のプロジェクト終了時にむけてさらなる現地調査を予定している。最後に、今回の調査でお世話になった関係者の皆様に、心から御礼申し上げる。

(Mizuho Matsumoto)