Part 5 2006年3月8日〜4月7日
2006年3-4月 現地調査 <身元捜しと就籍>
事務局 松本みづほ
3月8日から4月7日までの一ヶ月、今年初めてのPNLSCフィリピン現地調査を行った。マニラ、バギオ、ダバオにて2世への面接(計29件)を行った他、就籍申立中のケースの追加調査なども実施した。
2世面接
2世面接は1世の身元調査を目的とするものだが、その人の人生の歩みや昔の生活など、貴重な話を聞くことができ、毎回、多くのことを学ばせられる。また、困難な時代を生き延びてきた日系人への尊敬の念をいつも新たにされる。以下に、今回面接した、花田トマサさん(仮名)のケースを紹介する。
花田トマサさん(仮名)
花田トマサさん(仮名)(85歳) マニラ首都圏ケソン市にて聞き取り
トマサさんは高齢で移動が困難だったため、自宅を訪問し聞き取りを行った。トマサさんは日本人が来たと聞き興奮していたようだ。以下のように証言してくださった。
「私の父は、戦前フィリピンに渡り、サンバレスで大工として働いていました。民宿(レストハウス)を経営していたフィリピン一家の娘(私の母)と結婚し、兄と私をもうけました。私は両親のもとで成長し、一度は父に連れられて、実家の広島まで訪問したこともあります。その後19歳でフィリピン人と結婚しました。父も結婚式の記念写真に写っています。数年後、フィリピンは日本占領下に置かれ、父は私たちを連れ、マニラで働きました。しかし数年後にはアメリカ軍の反撃が始まり、父は家族を田舎に帰らせ、自らは日本人の仲間とともにマニラにとどまりましたが、その後の行方がわからなくなりました。」
トマサさんの父、花田Gさんの身元は判明した。見つかった戸籍には、トマサさんの名前があった。また父親のGさんは、家族が住んでいた町の近くで「戦病死」と記載されていた。本人にそのことを伝えると、悲しそうに何度も首を横に振った。しばらくして、「父の骨はどこにある?」と聞いてくるので、私はわからないと説明したが、その後何度も父の遺骨について尋ねてきた。どうしても見つけだして埋葬してあげたい、という願いが伝わってきてせつない気持ちになった。
集団就籍ケースの追加調査
記憶にも新しい、去年10月の「フィリピン残留日本人集団帰国」。来日者中8名の2世が、家庭裁判所に就籍の申立を行った。それからはや半年。裁判所からはケースごとに多くの質問が届いており、代理人弁護士をはじめ、PNLSC職員はそれに答えるべく、資料の収集や追加の聞き取り調査などを行っている。今回私は現地日系人会と協力しながらマニラとダバオで追加調査を行った。
申立人の一人、レティシア・ダルーカさんは、両親ともに日本人のケース。幼くして孤児になったため、両親の名前も不明、資料もなし、ただ目の前で母親を殺されるという鮮烈な記憶だけが残っている。ダバオで再会したレティシアさんは、来日の経験を楽しそうに話してくれ、日本の支援者にもたいへん感謝していた。しかし、彼女のニュースを聞いた地元の人からは、「そんな映画みたいな話」「うそじゃないのか」などとも言われたそうだ。「私は、うそなんか言っていない。」と涙して訴えていた。今回の現地調査では、レティシアさん本人からの聞き取りに加え、彼女が引き取られ、しばらく住んでいたタロモの家に赴き、当時のことをよく知っている隣人を探して証言をとった。また、引き取った家族や親戚からも聞き取りにより、書類を作成した。
当時の隣人から聞き取り
私が帰国する前日、レティシアさんはダバオ日系人会を訪れ、お土産のお菓子を持たせてくれた。彼女は、「この年になると、自分は何者なんだろう、何人なんだろうってよく考えるの。本当に日本人として認めてもらえるのかしら。私のケースは難しいんでしょう?」と不安そうに心のうちを語った。レティシアさんをはじめ8人全員の就籍が勝ち取れるよう、弁護士ともども最善を尽くしたい。